『この人の閾』で芥川賞を受賞した保坂和志のデビュー作。本来この手のは本来不要なのだけど、便利だから使わせてもらう。
よく言われているようにこのひとの本にはこれといってプロットと呼べるようなものはなく、日常生活や心情の描写の描写が大半を占める。なので、ストーリー中毒である僕には物足りない面もあるのだけど、意外なことにこの作品の読後感は良かった。
主人公の周りには年上の友人もしくは知人、男女問わずつきあいの長い友人、興味深い新顔がいる。多少は相手を選ぶにしても、主人公が向ける「どうして負けているときに限って七対子の最後の3枚の選択は外れるのだろう?」(これは僕が今適当に作った問いで、実際にはない)みたいなどうでもいいようなとりとめのない話に対し、誰もがそのひとなりの答えを返してくれる。
ただそんな会話と、そのきっかけになるためだけの生活が続くだけで、恋人が事故で死んだりしないし、宝くじどころか万馬券すら当たらない。裕福なわけではないけど、悲壮感のまったくない生活ができる程度の収入があり、そのためにあくせく追われることもない。あまりに天気がいいので思い切って午前中休む、みたいなノリだ。そしてその主人公はもう既に若者ではない。
人生がそうやって幸せに過ぎていけばいいなあと思う向きには憧れの世界。何も起きないということが起きるフィクション。素敵なファンタジー。始めに書いたように、良い気分で読み終えることができた。
しかしこの気分はあっさりぶち壊される。
あとがきの中で、批判に対し反論のようなことをいう部分があって、その批判は「こんなサラリーマンはどこにもいない」であり、反論は「ぼくは実際にそういうサラリーマンをつづけていたわけで、」だ。僕はショックというに近いものを受けた。
まず、こんなサラリーマンがいない、もしくは非常に少ないことは誰でも実感していることで、金があるわけでもケンカが強いわけでも特別顔が良いわけでも特殊な知識が豊富というわけでもない果物屋の家事手伝いが池袋のガキやヤクザ、警察に一目置かれているとか、ほとんど患者が来ない精神科のデブで性格はわがままなガキという医者がポルシェに乗りグラマーで美人の看護婦と二人で働いているとか、その程度にありえないフィクションだ。それ故にノレないってのはよくわかるから、それだけを言えばいい。批判はどうかと。例えば僕が赤川次郎の読者でないように、あなたは保坂和志の読者でないというだけのことだと。
しかしそんな批判に対する反論はそれ以上に酷い。実際そうなんだから仕方ないって?そうかもしれないけど、そんなこと表明することなのか?
同じ本の、本人ではないひとの解説で、保坂和志は西武のエリート社員で、小説を書くための休職を受け入れてくれた理解ある上司がいて、周りにもおかしな人間が沢山いて、あまり関係ないけど信じられないほど美人な奥さんがいるということがわかった。その解説者曰く、ホサカの小説はある意味では写実的だと。なんて冷めることを書いてしまうのだろう。
ジェームズ・ボンドがプールサイドで金髪美女をはべらかしながら「いやー、実話だから仕方ないよ」とでもいうのならいっそ清々しいし、西原マンガの登場人物が大概実在することも「スゲエな」で済ませられる。もはやというかなんというか羨ましくはない。
しかしホサカ作品の世界は違う。本来エンターテイメントにはならないような裕福で平和な世界だ。それが想像力の産物ではないのなら、ただの自慢じゃないか。そうわかった瞬間この世界にかかっていた魔法は一瞬で消える。
僕はこの作品が好きだ。同じ設定での続編『草の上の昼食』もなんら変わらないけど良かった。(僕が持っているのはこの二つが一冊にまとまった文庫本なのだけど、amazonでは見つからなかった)。だけど今は残念な印象の方が強い。
なんでそんなつまらない反論を、裏話を残したのか。不思議でならない。
あー、というかアレか。それがバブルってやつか。
(KOM:04/11/11)