岡崎京子の代表作と尋ねられれば8割方のひとが『リバーズエッジ』を挙げると思う。僕だって多分そう答えるし、事実そうでしょう。話としては『ジオラマボーイパノラマガール』、『PINK』あたりも素敵だけど、正直90年代中頃になるまでの岡崎さんの画力は少々厳しい。悪くはないけどストーリーの力に絵が追いついてない。その点が『リバーズエッジ』では解消されていて、故に代表作といいやすい。
そこからが円熟期みたいな。
だけどある日、そういうアート的観念とは別のところで、僕はこの『東京ガールズブラボー』、そしてそこから『くちびるから散弾銃』の流れに影響を、しかも無意識に受けていたということにかなり遅れて気付いてしまった。僕が岡崎さんを崇拝している決定的な理由は絵でもストーリーでもないということに。
未読の方のためにかいつまんで説明するとこの一連の作品は北海道から引っ越してきたオサレ大好き女子高生サカエちゃんが、東京生まれポップカルチャー育ち、カワイイやつは大体友達なミヤちゃんなっちゃんと知り合い、後はただ一緒に遊ぶだけ。『くちびるから散弾銃』に入って社会人になるともう喋ってるだけ。ストーリーもなんもない。
故に今の高校生から大学生ぐらいの、つまりサカエちゃんと同じぐらいの年齢の人たちが読んでも意味がわからなくて、本当につまらないんじゃないだろうか。なにせ音楽はニューウェーブ、YMO時代のテクノから、フリッパーズあたりの渋谷系、モッズ。ラフォーレが世界の中心で、ギャルソン、Y'sがオサレの頂点。ヒステリックグラマーには註釈が必要。とんねるず及びデブがテレビを支配。そんな時代。つまり’80。僕にとっても意味はわかるぐらいで、確実に世代が違う。
しかし、ニューウェーブを例えばヘヴィロックやヒプホプに。ギャルソンを例えばAPE、SILASあたりに置き換えてみると、これは急に自分の話になる。あまりにも友達のいなかった大学時代。授業もそこそこにお茶の水や下北でCDと古本に、渋谷や代官山をうろつき服にと、バイト代の殆ど全てを特攻(ぶっこみ)、地元に帰ってから中高の友達と卓でも囲みながらうだうだする。それが基本スタイル。文化が違えどやってることはサカエちゃんたちと同じだ。
これが、もし岡崎さんでなくて柴門ふみだったら。さわやかサークルに入って、みんなで就活を乗り切り、卒業後も連絡を取り合って飲んだりする、そんな大学生活があったのではないか。そんなノリの中、当時のクラスメートの女にオサレバーで偶然の再会を果たしてそのままベッドイン、数ヶ月後結婚を考え始めたところで彼女が既婚であったことがわかって大変なことになったりしたのではないか。
ちょっと楽しそうだ。
しかし岡崎信者は違う。 ダサイのかカッコいいのか。おもしろいのかつまらないのか。基本はそれだけ。柴門ワールドよりもはるかに楽しく文化的だけど、悲しいかな発展性というものに欠ける。どこかでなにかを諦めないと、気付いたときには取り返しのつかない年齢で、残っているのはわずかな貯金とレコと本と服etc。そんなことになる。
男の場合、その辺開き直って趣味に生きたるぜってのも(イヤイヤながら)社会的認知を受け始めているようだけど、女性の場合そうもいかず、(ありもしない)風当たりを感じてしまう。そんな世代が「負け犬」という言葉に反応しているのではないだろうか。それが岡崎の呪いだ。潜在的に植え付けられた、カルチャーへの尽きることのない欲望。実に恐ろしいことです。
(KOM:05/05/15)